2011年5月10日火曜日

沖縄県 中城城跡

こんばんは。
税理士の山脇です。

100名城スタンプラリー15城目は、中城城跡に行ってきました。

「なかぐすくじょうあと」と読むのですよ。
難しいですね。(笑)

中城城跡は、沖縄県の中部地区に位置し、屋宜の港から
2㎞ほど離れた標高約160mの石灰岩丘陵上にあります。

中城村の西北から北中城村の南側にのびていく丘陵の東崖縁を
天然の要害とし、守りやすく攻めにくいお城となっていました。

築城年代は不明なのですが、14世紀後半頃まで先中城按司が
数世代にわたり、西の郭、南の郭、一の郭、二の郭の主な部分を
築き上げ、1440年に読谷の座喜味グスクから移ってきた護佐丸
によって、北の郭、三の郭が増築され現在のグスクの形が完成した
と伝えられているそうです。

「按司(あじ)」とは、12~16世紀に農村集落を基盤として群雄割拠
した領主的豪族層のことをいいます。

護佐丸は、王様の命令により、その頃勢力を伸ばしてきていた
勝連城主の阿麻和利(あまわり)を牽制するため中城城に移った
のですが、天下を狙う阿麻和利の讒言により、王様に謀反を
疑われてしまいます。

王様も最初は、阿麻和利の言葉を信じなかたったそうですが、
たび重なる忠告に自信も揺らぎ、家臣に中城城の様子を見に
行かせたところ、護佐丸が兵士を訓練しているところを目撃し、
びっくり仰天した家臣は王様に「謀反の疑いあり」と報告して
しまったそうです。

報告を聞いた王様は、阿麻和利に、護佐丸討伐を命じます。

護佐丸は、攻めてきた阿麻和利軍を見て謀りごとと見抜きつつも、
掲げられている旗が首里王府軍の旗だったため、「王府軍には
逆らえぬ」と幼児だった三男のみを乳母に託して落ちのびさせ、
妻子もろとも自害してしまいます。

阿麻和利といえば、その後、讒言だったことがばれて王府軍に
滅ぼされたと伝えられているそうです。

王様への忠誠心を貫いた護佐丸の何とも可哀想なお話でしたが、
大きな勢力が二つも滅んだことにより、一番得をしたのは誰か・・・
真の黒幕は一体誰か・・・

勝手に想像して、ちょっぴりサスペンスっぽく、ガイドさんのお話を
聞いていた私でした。(笑)

ちなみに、このガイドさんですが、ボランティアガイドさんで、城跡内を
無料で案内してくださいます。

1時間ほどで城内を回るのですが、上に書いた護佐丸のお話など
パンフレットに載っていないお話や、見て回るだけでは気付かない
ことをわかりやすく説明していただけるのです。

中城城跡に行かれるのなら、ガイドさんをお願いすることを
お薦めします。

さてさて、話が少しそれてしまいましたが、中城城は、護佐丸
滅亡後に王府の直轄地となり、その後1470年頃からは、
世子である中城王子の採地となったそうです。

明治になってからは、番所の一室に中城小学校が開設されたり、
中城村役場が置かれたりしたそうですが、小学校は移設され、
役場は第二次世界大戦で焼失してしまったそうです。

戦後は、中城公園として遊園地などの施設が隣接されたそうですが
今は、記念運動場が残っているだけでした。

昭和47年には、国の史跡に指定され、平成12年には世界遺産に
登録されたそうです。

中城城跡は、去る大戦の戦禍による被害が少なく、沖縄県内の
グスクの中でも最も原型を留めているのだとか。

写真右は、東に向かって建てられた裏門。
ペリー探検隊一行が、エジプト式と評した精巧なアーチとなっています。

アーチの右側は、石積み技法の最も進んだ相方積み(亀甲乱れ積み)
なのだそうです。

中城城は、裏門から入って奥に行くほど石の積み方が古い方法だそうで、
増築、増築されてきたことがわかるのだとか。

 
北の郭と三の郭。

三の郭は、新城(ミーグスク)とも呼ばれ、こちらも相方積み(亀甲乱れ積み)によって築かれています。

強度と耐久性に富む積み方なのだそうです。

亀の甲羅のような石が綺麗に積み上げられていました。

護佐丸により増築されたところですね。

 
北の郭にある大井戸(ウフガー)。

城郭内に水を確保していることが、このお城の特徴でもあるそうです。

西の郭にも夫婦井戸(ミートゥガー)と呼ばれる二つの井戸があるのだとか。









二の郭。
曲線が本当に美しい!

二の郭と一の郭の石積み技法は布積み(豆腐積み)だそうです。

確かに、豆腐のような四角い石が積み上げられていました。









曲線が綺麗な石垣には登ることができます。

二の郭の石垣の上から見た三の郭。
石垣は幅も狭く、結構な高さがあり、足が震えました。
下から見ると綺麗な曲線なのですが、登って歩くと曲がっている分
恐さが倍増します。

石垣の上からは、西に東シナ海、東に太平洋、勝連城のある勝連半島
などが見渡せます。

あいにく梅雨入り前で、どんより曇っていたのが残念です。









城内には、8つの拝所があるそうで、今も拝む人が絶えないそうです。

写真左は、二の郭にあるシライ富ノ御イベ。
写真右は、一の郭にあるチゲー御嶽。









写真左は、南の郭にある雨乞いの御嶽。

南の郭は、野面積み。
自然の岩や石をそのまま組み合わせる、最も古い技法なのだそうです。


  写真左は、南の郭にある九高遥拝所。

写真右は、南の郭にある首里遥拝所。

 
互い違いの階段になっています。

上級武士と平武士を分けて歩かせたという説と、二人で何かをかついで
運ぶ際に片方が一段ずらして登ると平行になって登りやすくなるため
互い違いにしたという説があるそうです。

1853年に来島したペリー提督も賞賛したといわれる中城城。

写真右は、互い違いになった階段を下りて下から撮影したものですが、
「西の郭より正門を望む」という、ペリー探検隊一行の画家ハイネの絵にも
しるされています。










写真左は、第二次世界大戦当時、日本軍が防空壕を作ろうと
工事を始めた跡なのだそうです。
石垣の構造がとても堅固で作業が難航し、諦めて撤退したのだとか。

この部分の石垣を取り払われていても、上から崩れてくる気配なし。
恐ろしく頑丈な作りなのですね。

写真右は、西の方角へ向けて建てられた正門。
門を挟むように両側に石垣がせり出し、ハンタ公(公道)に向けて
挟間が作られています。

侵入した敵を攻撃しやすいのだそうです。

   
カンジャーガマと呼ばれる鍛冶屋跡。

護佐丸が阿麻和利に備えるために武具を造っていたとも
伝えられているそうです。









この中城城跡、ペリー提督の言葉ではありませんが、セメントも無い
時代にこれだけのもが築け、かつ、今なおそれが残っているとは
その建築技術の高さに驚きます。

もう一度来たいお城の一つになりました。
次は、快晴の日に!(笑)

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