2011年5月21日土曜日

沖縄県 今帰仁城跡

こんばんは。
税理士の山脇です。

100名城スタンプラリー16城目は、今帰仁城跡に行ってきました。

「なきじんじょうあと」、「なきじんぐすくあと」と読むのですよ。
これもまた難しいですね。
恥ずかしながら最初は読めませんでした。(笑)

今帰仁城は、沖縄本島の北部、本部半島の今帰仁村にあったお城です。
別名、北山城。(ほくざんじょう、ほくざんぐすく)

沖縄本島の北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山が
それぞれに支配した三山時代に、北山王の居城として栄えたお城
なのだそうですが、いつ、誰によって築かれたのか、正確には
わかっておらず、発掘調査により13世紀頃には城造りをはじめた
のではないかと推測されているそうです。

武勇に優れ北部地域を統一し、北山王として富を築いた攀安知
(はんあんち)は、中山王の息子、尚巴志(しょうはし)によって
1416年(1422年説もある)に滅ぼされてしまいます。

山深い丘陵上にあった難攻不落の今帰仁城。
滅亡の影には、中山王に賄賂をもらって謀反を企てた家来、
本部平原(もとぶていばら)がいました。

尚巴志率いる連合軍は、本部平原の協力のもと、北山軍を
城外におびき出し、北山全軍が城外で戦っている間に城内に
侵入し今帰仁城を攻落したのだそうです。

攀安知は、守護神としていた霊石を斬りつけ、かえす刀で
自害しようとするのですがこれが切れず、腰の小刀で切腹
してしまったという可哀想なお話でした。

1422年以後、今帰仁城には監守が派遣され、監守の居城と
なりますが、1609年に薩摩軍による琉球侵攻にあい、お城は
炎上してしまったそうです。

監守が首里に引き上げてからは「御嶽」とし精神的拠り所として
参拝者が訪れる場所となったそうです。

圧倒されるような高い石垣です。
今帰仁城は、首里城に匹敵する規模だったそうです。
 
今帰仁城跡も世界遺産に登録されています。
平郎門。

今帰仁城の正門で、昭和37年に修復されたものだそうです。
門の天井には大きな一枚岩を乗せ堅牢な作りとなっており、
門の両脇には門番が見張りをする挟間があります。

七五三の階段。
平郎門から続く参道は綺麗に整備されていました。
旧道は、大きな岩盤の谷間を利用して、道幅を狭く造り、
敵兵が一気に廓まで入れないよう工夫されていたそうです。



城内で最も中心的な建物があった主郭(本丸)。
一番高い頂上にあります。

中国やアジア諸国との交易によって富を得ていたので
平らにする土木工事も難なくできたのだとか。

自然を利用した難攻不落の今帰仁城。
北山王の財力はものすごいものだったのでしょうね。

この日は結婚式が行われていました。
今帰仁城跡は、琉球七御嶽の一つで、凄く神聖な場所なのだとか。
全国的に注目を集めている世界遺産ウェディングができるそうです。
琉球衣裳をまとった、花婿さん、花嫁さんが素敵でした。


主郭から大隅が見えます。
戦時に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所だそうです。

万里の長城を思わせる城壁。
(万里の長城へは行ったことはありませんが・・・笑)

遠くに海が見えます。
あいにく、この日から沖縄は梅雨入りし、時々小雨がぱらつき
どんより曇っていたのが残念です。
 
主郭から下へ降りて志慶真門郭へ。
城主に仕えた身近な人々が住んでいたそうです。

これは・・・どこでしょうか。(苦笑)
帰り道、参道をそれて迷い込んでしまいました。

地図で見ると大隅か・・?




右の写真は、古宇利殿内(ふいどぅんち)。
祠は古宇利島のある北東を向いていて今帰仁村の唯一の
離島である古宇利島の人々が旧8月に遙拝するそうです。

平成22年に古写真をもとに移築、復元されたものだそうです。





城壁の曲線が本当に素晴らしい!

曲線にすることで、より堅固となり、また、敵を攻撃しやすいという
防御性に優れているそうです。





平郎門の手前にあった、さとうきびのジュース屋さん。

城内散策後には喉もカラカラ。
甘くて冷たいさとうきびシューズが美味しかったです。

このお店では、さとうきびジュース作りの体験もできるのですよ。










沖縄でまわった3城は、今までお城巡りをして見たお城とは
全く雰囲気の異なるものでした。

なかでも、美しい曲線を描く高い城壁には圧倒されました。

今回は、100名城に選定されたものだけしか見ることが
できませんでしたが、他にも、勝連城跡や、座喜味城跡など
世界遺産に登録されているお城があります。

是非、機会を作って、まわってみたいと思いました。

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